たまにはメモるよ。
・「私は書くことでしか生きられない」。哲学的に突きつめると、人はなぜ書くかというと、人は死ぬからだ
・人間について断言できるたった1つのことが根拠になっているだけに、こうも断言できる:「人は必ず書く」。そして書き続ける。そして実際、書いている。
(以下、書く=「もの-がたる」。クソ同人漫画でも音楽でもなんでもいいさ)
・もともとは「みんな」作り手だった。いちいち少数民族の例を出す必要もあるまい。例えば歴史的・民俗的に考えても、村の人々は恋や悲しいこと、自分や村のことを歌や炉辺の夜話として語り継いだ(=物語的自己同一性)
・誰でもが作り手になれたし、そもそも作り手と受け手という区別はなかっただろう
・村では死すべき名無しの人々による歌がうたわれ、そし名無しは死んでいった。死すべき・死んだ名無しの人々の歌の記憶は、いまや空気の中にしか残っていない
・例えば万葉集はCGMだよね。編集が入ってるけどさ、「名無し」の歌がいっぱい載ってる
・いまのような、「作り手資本」が一部に集中して(「やっぱりプロはねー」的言い方)、「持てる作り手」と「口あけて待ってる受け手」とがはっきり分かれる非対称的なありかたって、たぶんここ2世紀くらいの話であって、ガチガチになったのは資本主義の高度化と大衆社会の大衆化が進んだ100年以内の話だろうと
・「みんなが作る時代になった」という。そうではなくて、インターネットという公共空間の出現をトリガーにして、「みんなが作る時代に戻りつつある」が正しいのではないか
・死すべき「名無し」として、俺たちはいま、村の夏祭りで即興の歌にのせてあの子に想いを伝えた「名無し」──に帰ろうとしてるんじゃないだろうか
・これを例えば、芸術産業資本による「書くこと」の独占を、インターネットという公共空間の出現とPCによる劇的なコスト低下によって、再び「みんな」「名無し」へと解放した「革命」なのかもしれない──というのはやり過ぎなので却下と(;´д`)
・激しくなるばかりの権利者-ユーザーの戦いも、「作ること」をここ50年の間独占してきた芸術資本家と、いまや「持てるもの」になった元無産階級との間の階級闘争だと思えばいい(笑) 著作権法という、“不平等条約”をめぐるたたかい
追加
・もともとみんな作ってたと思う。子どもはみんな作り手だよね
・でもみんな作らなくなる。ヘタとか。才能がないとか。そもそも「才能」だとかって、「作ること資本主義」的なスクリーニングのツールなんじゃないだろうか。日本人の「学力」も、高度経済成長期前夜に文部官僚が設計した「マンパワー論」がもとになってる。良き労働者として
・Flash板を思い出す。切磋琢磨でレベルが上がり、「ヘタな人」が公開しにくくなり、そしてさびれていった。一応、「うまい人」(=職人)と、見る人は残ったかもしれない
・うまいとかへたとか、それ自体が「作ること資本主義」の資本家がビルトインした罠なんじゃないだろうか。みんな罠にはまってないだろうか
・人は死すべきものである、そして書くものである──というところから、人が書くことと、それを受け取ることの意味を、ちょっと考え直したほうがいいような気がする
・村祭りの恋の歌の「うまい」「ヘタ」を論ずるのって、さみしくないか。心にこそ耳を傾けたいじゃないですか
・だって死ぬんだぜ、みんな
・というわけで、俺は同人誌をそういうとこからしか読んでないし、そういう同人誌しか興味がないのだ、という元々の立ち位置を確認する話でもあるようだった。同人誌界っていうのは、イベントの主催者すら商業誌的序列を内面化しているようで、初めて足を踏み入れた時から不思議なもんだと思ってた。今でも思ってるけど、関係ないからいいや、みたいな感じになった
・だって夏祭りの恋の歌に「商業誌」なんてあるかよ(苦笑)
・死すべき名無しの俺はずっと歌ってやるぜ~ボエ~